Ads by Googleスレッド「スイスの写真家の目から見た1950年代の日本」より。戦後の日本の写真を撮影していたワーナー・ビショフ氏の写真が海外で話題を集めていたので反応をまとめました。
引用:imgur、Reddit、Reddit②
(海外の反応)
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万国アノニマスさん

凄くクールだ
俺はこういうのを見るために来てるんだ、感謝するよ!
俺はこういうのを見るために来てるんだ、感謝するよ!
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万国アノニマスさん

明治神宮の写真は完璧だ
4
万国アノニマスさん

おいおい彼は4枚しか写真を撮ってないのかい?
↑
万国アノニマスさん

インフレを考慮したら現代の25枚分くらいはるから
↑
万国アノニマスさん

うちの猫は今朝700枚写真を撮ったというのに
5
万国アノニマスさん

マグナム・フォト(世界的写真家グループ)の写真集を持ってるけど
明治神宮の写真はその中でも一番気に入ってる、こういうの良いよね
明治神宮の写真はその中でも一番気に入ってる、こういうの良いよね
6
万国アノニマスさん
絹の乾燥作業の写真は構図が最高だ
明治神宮も良いけどこれまでにも4回くらい見てるから特別感が無いな

絹の乾燥作業の写真は構図が最高だ
明治神宮も良いけどこれまでにも4回くらい見てるから特別感が無いな
7
万国アノニマスさん

浅草でギターを弾く第二次世界大戦の日本の退役軍人
撮影はワーナー・ビショフ氏、時期は1950年初頭

8
万国アノニマスさん

↑
万国アノニマスさん

義足であることに注目してほしい
戦後、どうやって傷痍軍人を日本まで運んだんだろう
戦後、どうやって傷痍軍人を日本まで運んだんだろう
8

これは本当に初期の義足だな!
9
万国アノニマスさん
ビショフのことは大好きだ、写真も凄く良いね

ビショフのことは大好きだ、写真も凄く良いね
10
万国アノニマスさん
これは良いものを見つけたな!!!

これは良いものを見つけたな!!!
11
万国アノニマスさん
1955年にワーナー・ビショフ氏が撮影した階段に座る日本人男性

1955年にワーナー・ビショフ氏が撮影した階段に座る日本人男性

12
万国アノニマスさん
素晴らしい作品じゃないか!

素晴らしい作品じゃないか!
13
万国アノニマスさん
1951年の日本に海軍が残ってるとは知らなかった

1951年の日本に海軍が残ってるとは知らなかった
14
万国アノニマスさん
日本の海軍というよりは真珠採りのダイバーじゃないかな…

日本の海軍というよりは真珠採りのダイバーじゃないかな…
15
万国アノニマスさん
”スイスチーズの目から見た”に見えて何がどうなってるのかと思ったけど

”スイスチーズの目から見た”に見えて何がどうなってるのかと思ったけど
”スイス人写真家の目から見た”だったよ(悲しみの空腹音)
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万国アノニマスさん

日本文化を詳しく知りたいなら陰翳礼讃がオススメ
谷崎潤一郎の70ページの随筆だが東洋の美学が分かるよ
谷崎潤一郎の70ページの随筆だが東洋の美学が分かるよ
18
万国アノニマスさん
西洋人が日本を知っていき、権力者の娘と恋に落ちて
戦争中に彼女を救うという映画をこういう写真から作れそう

西洋人が日本を知っていき、権力者の娘と恋に落ちて
戦争中に彼女を救うという映画をこういう写真から作れそう
19
万国アノニマスさん
見事すぎる!
これを元に絵を描きたくなってきたよ

見事すぎる!
これを元に絵を描きたくなってきたよ
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コメント一覧
いろんな国のも見たくなるね
日本本土で負傷した人もいるんですよ
日本が一方的に侵略した様な教育受けてるから誤解するんだよ
江戸の昔でも世界との交流を継続し第一次対戦後は既に主要国になり、文化、品物への関心も高かったのだから。
24の俺に言わせれば戦争すら子供の頃は本当にそんな事あったの?(そんくらい豊か)の領域。例えば、トラクターのない時代(父母の若い頃)は牛が畑を耕していたとか(貧乏やと年寄りの牛か仔牛か忘れたけど、そっちを使ってたとか)。池で泳いでた、ここには昔大きい工場があって他県からも就職しに来て栄えてたとか。
モノクロで撮れば同じものが出来そうな気がするけどなw
ワイおっさんやけど俺が会話してる祖母の曾祖母は江戸時代生まれとか思うとわけわからん気持ちになる
明治神宮の森の植栽計画の一端が垣間見れるな。
父方の曾祖父が日露戦争行って帰ってきたとか明治天皇に刀あげたか貰ったか忘れたけど明治天皇にあったとかいう話聞くと分からん時はある。
まだ存命の可能性もあるのか…
「じいちゃん恥ずかしい」って照れたりしてw
物乞いやってた「傷痍軍人」は詐欺芸の一種の場合もあったり。
義足の物乞い傷痍軍人が夕方になると自分の足が生えて歩いて帰ったなんて話もあったり。
成田山にもいっぱいいたけどある日を境に全く見なくなったな。
偽称してる人たちも多くて、そういうのを排除するために
ほんとの傷痍軍人に対しては救済する法律とかできたんじゃなかったっけ。
今は分からんけど、昔(8歳くらい)は役所や銀行行って「"大正"って文字があって大正?昭和より前やろそんな人が生きてるの?」って言って。母親に「ひぃおじいちゃんが大正生まれやで」ってなったことならある
手を合わせてるし目線から床に置いた新聞を読んでるように見えるんだけど
何故手を合わせて床において新聞読んでるのかは知らんけど
それとも50年に警察予備隊が発足した際に海上保安庁の船を融通してもらった経緯でもあるのかな?
防衛庁かその前の保安庁か?省になってすっかり忘れてた。
昔のヨーロッパ(ゴッホとかいた時代)の画家さんが日本の版画みて構図に衝撃受けたらしいよ
ヨーロッパはだいたい人が中心で目立つように描いていたから
当時、上の人から怒られてそうだよね
当時は、107歳だった。まだ、元気な人で歩行器で自分で歩いてた。
108歳の誕生日を迎えた頃に自分は転職してしまったから、その後は分からんけど。
大正生まれも、まだ生きてるよ。日本人は長寿だから、介護施設にたくさんいるよ。
昭和初期生まれも沢山いるし。1950年代なんて、まだ新しい歴史だよ。
両足あそこまで吹き飛んだら死んでると思う
生まれつきじゃないだろうか
ファインアートとしての写真はこれから生き残れるのかな
爆弾で瞬時に吹っ飛ばされるだけじゃないからね
腐敗とか凍傷とか押し潰されたとかでどうしようもなくて手術で切断した場合なんかもあるんだろう
芋虫ゆうただって四肢吹き飛んでも生きてたし
必ずしも爆発の中心に居たとも限らない
そうは言うが、それはそれで働き者だ。
縁側にカーテンとは珍しいな
それとも蚊帳なのかな?
1950年代だと江戸時代生れの人もまだまだいた時代か
もう新字体使ってたんか?
戦争中に彼女を救うという映画をこういう写真から作れそう
何キモイその妄想。
悪の日本から美女を解放するのだって事?
いや、悪はお前等だから、そして解放するどころか焼き殺してるし。
帝国海軍の末裔というか、流れをくむのは海上保安庁だ という話がある。
追記。
可睡斎って名前は徳川家康が由来。
家康が浜松城に当時の住職を招いたらその席で居眠りこいたもんで、家臣が怒ったけど家康が許して、それを見た家臣が住職を可睡和尚って呼ぶようになったのが寺の名前にまでなったんだって。
可睡(眠ってもいい)斎(寺)
1951年が正確なら防衛庁の前身の保安庁の可能性もありとも思いますが、ボートに省庁の名前を入れますかね?
海上自衛隊の前身である海上警備隊の創設は1952年だし、ボートにも海上警備隊と入れるのでは?
コメント19で指摘されてるように(1948年創設の)海上保安庁が正しいと推察します
海保なら現在も海上保安庁と入れてますしね
え?本人は54年5月に亡くなってるようだけど...
邦画の画面のチープさは日本のカメラマンの腕が悪いからだと思う
何気に海上での行動にはスキルが必要なんで、元陸軍兵士を排除した警察隊と違って、海上保安庁においては船舶を操れるスキル持ちってことで、旧海軍出身者の方々が多く採用されたという話。
そういう意味では、兵士って表現もそれほど間違ってはいないかもしれないw
同じように旧海軍出身の人が日本近海の掃海作業なんかにも駆り出されていたし、その流れで朝鮮戦争時に半島周辺まで違法脱法状態で引っ張られて荷揚げや掃海作業なんかに従事させられたりしているし。
地雷は、命をうばいはしないが、あしだけはふきとばすみたいな、そういう威力を微調整してつくられている、というはなしをきいたことがあるけど。
脚を失ってもあの表情。自分だったら無理だろうな〜
>元陸軍兵士を排除した警察隊と違って、海上保安庁においては
船舶を操れるスキル持ちってことで、旧海軍出身者の方々が多く採用されたという話。
飛行機の方は英語必須になった事と
ジェット化により教育体制や戦法が大きく変わった事、色々アメリカナイズされた事で
旧軍のパイロットはベテランほど状況に馴染めずにパイロットを諦めた方も多かったとか
手足が吹き飛んでも人間って簡単に死ねないそうだよ
兵隊は応急措置と冷静さを習うから民間人より失血での致死率も低い
運が良ければ(悪いのかも)命は取り留める
>戦争中に彼女を救うという映画をこういう写真から作れそう
典型的な植民地主義的・差別的発想なんだが、自覚は無いんだろうな。
嘘書くな日本エアプのキッチ外中韓チンパンジー
30年前に90歳としても、その婆さんが小さい頃は日露戦争で勝利したり、家族でデパートまで洋食食いに行ってた時代だ
ハリウッドの一級と比較するなら全部違うレベルだよ
日本の映画はテレビドラマの延長で作る、向こうは世界中で売れて何十年観れる望みで作る
スタッフも世界一、役者も世界一、機材も世界一レベルのものが集まるしそれに投資する
映画製作専門のデカい保険会社があるくらいだ
当たらなきゃ会社潰れるくらいの額をかけて一本の映画を撮る
あれ見て赤穂浪士のワンシーンを思い出した
雪が強烈に印象に残ってんな
うちはお墓参りすると、江戸時代のお墓がある
古い方から並んでて、年号としては安永が一番古いな、ペリー来航の年とか、日露戦争の年とかいろいろある
石の表面が剥がれて来てるよ
隣近所の列はおそらく親戚なんだろうが、今じゃ全く知らない人だ
前に仏壇の位牌や戸籍と答え合わせしたら、なんか亡くなった歳も生まれた年も違ってたりで昔はわりといい加減
昔は墓石持っていっちゃう人がいたとかで、土台しかないのがいくつかあって、誰のかわかんないんだよなあ
うちの婆ちゃん明治44年4月3日生まれだ
本当は4日生まれだが、4並びが嫌だったから勝手に変えたそうな
西洋人が日本を知っていき、権力者の娘と恋に落ちて
戦争中に彼女を救うという映画をこういう写真から作れそう
クソすぎる。思い上がりも甚だしい。
2000年に死んだうちの曾祖母が明治生まれだったわ。
明治40年生まれで誕生日前だったから92歳没。
ご存命の大正生まれでパッと思いつくのは元中日の投手の杉下茂さんかな。
出征もされてたくらいご高齢なのに、コロナ前まで沖縄キャンプ視察に行ってたのよね。
そんな映画見たくもないって思った
おいおい、無知でマウント取るなよ
大正時代はまだ丁髷の人結構いたんだぜ?
名古屋のうちの周りも庄屋さんとこに頑固者がいて、「髪の毛を結うと、しゃんとする」って切らねえの
ちなみにそこ、うちの本家でさ(うちは分家そのいち)
写真もあるけど、戦争始まるちょい前に、軍人さんに無理矢理切られたとよ(´・ω・`;)
日露戦争が1904-1905年、大正元年が1912年、昭和元年が1926年だが
>戦争中に彼女を救うという映画
蝶々夫人の悲惨さ知らんのかい
戦前は、海保に当たる組織は、無かったのよ。灯台の運営は内務省だったが海防艦の運営は、現役を引退した軍艦を利用して海軍がやっていたんだよ。保安庁を作るときに海軍関係者を入庁させたのがその始まり。そのまま、米軍の機雷処理をしたのが最初だよ。
>>48
尚、空自は、旧海軍パイロットにより構成されたよ。海軍の留学先は、英国と米国だったからね。
海外で負傷した人もいるだろ?国内で負傷した人について疑問が解決しても、海外で負傷した人についての疑問が同時に解決するわけではない。
本当だね。ペルーの山中で車が崖から落ちて"54年5月に亡くなってる
日本での写真は1951年から翌年の1年余りの間にジャーナリストとして撮影したと記録があったよ
終戦して6~7年後の日本 まだ国連軍占領時期かな
大声でツバ飛ばす外 人が縁側にずらり並んで居座り、
趣もヘッタクレもない。
今はマシなのかな?
映画の件は全部を史実通りにしても後味が悪くなる。上の案はフィクションで有りだと思う。
アニメにもいずれ出てくるかもしれない。
なんかリアルで見るといろいろショックだった
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