スレッド「1856年、江戸時代の日本で大名の花嫁のために作られた輿」より。13代将軍・徳川家定に嫁いだ篤姫(天璋院)が輿入れの際に乗っていたとされる輿が海外で話題を集めていたので反応をまとめました。
引用:Reddit
(海外の反応)
1万国アノニマスさん
1856年、江戸時代の日本で大名の花嫁のために作られた輿
2万国アノニマスさん
素晴らしいじゃないか
3万国アノニマスさん
大きさ比較のためにバナナが欲しいな
4万国アノニマスさん
自分の脳ではこれが高さ30cmにしか見えない
↑ 万国アノニマスさん
高さ128.9cm、幅477.6cm、奥行き96.8cmらしい
↑ 万国アノニマスさん
持ち運ぶ梁の部分から数えて高さ128cm?
それは凄く小さいし自分が入っても快適じゃなさそうだ
それは凄く小さいし自分が入っても快適じゃなさそうだ
↑万国アノニマスさん
当時は男性でも平均身長160cm未満
地面に触れないようにして肩に乗せないといけないのでこれ以上高くは出来なかったんだ
地面に触れないようにして肩に乗せないといけないのでこれ以上高くは出来なかったんだ
6万国アノニマスさん
博物館でこういうのをいくつか見たけどかなり小さかった
最初は大きめの模型か何かだと思ったよ
博物館でこういうのをいくつか見たけどかなり小さかった
最初は大きめの模型か何かだと思ったよ
↑ 万国アノニマスさん
やっぱり当時の人はかなり小柄だったんだろうなぁ
↑ 万国アノニマスさん
花嫁はここに楽々入れる子供だったに違いない
7万国アノニマスさん
凄く手の込んだ弁当箱みたいだ
8万国アノニマスさん
この輿は徳川家当主の結婚式の参列で花嫁を運ぶために使われた
運搬には6人の男性が必要で、両端に3人ずつで持つことになる
窓を内側からスライドさせれば開けることも出来る、外部は金漆塗りで内側も絵が描かれている
この輿は徳川家当主の結婚式の参列で花嫁を運ぶために使われた
運搬には6人の男性が必要で、両端に3人ずつで持つことになる
窓を内側からスライドさせれば開けることも出来る、外部は金漆塗りで内側も絵が描かれている
9万国アノニマスさん
しかし何故?
車輪が付いた乗り物があると思ってた
もしくは未舗装の道と繋がってたのか?
しかし何故?
車輪が付いた乗り物があると思ってた
もしくは未舗装の道と繋がってたのか?
↑万国アノニマスさん
これは地位を示すためのものじゃないかな
馬車を使うよりはむしろ6人の男に運ばせたほうが主君は富や影響力があるんだぞということになる
馬車を使うよりはむしろ6人の男に運ばせたほうが主君は富や影響力があるんだぞということになる
11万国アノニマスさん
江戸時代の道路はかなり状態が悪い
土砂崩れや地震のせいで車輪はあまり役に立ってなかったんだろう
江戸時代の道路はかなり状態が悪い
土砂崩れや地震のせいで車輪はあまり役に立ってなかったんだろう
12万国アノニマスさん
精巧な職人技だね
内装はどんな感じなんだろうな
内装はどんな感じなんだろうな
↑ 万国アノニマスさん
アメリカの博物館のサイトに画像があったけど壁に凄く美しい絵が描かれてるよ
源氏物語のワンシーンが描かれてるらしい
https://risdmuseum.org/art-design/collection/palanquin-norimono-tokugawa-and-ichijo-crests-2004113源氏物語のワンシーンが描かれてるらしい
13万国アノニマスさん
日本の凝った芸術はほとんど見ないけど
見かける時はいつも素晴らしい、これも例外じゃない
日本の凝った芸術はほとんど見ないけど
見かける時はいつも素晴らしい、これも例外じゃない
14万国アノニマスさん
文字通り金色の檻だな
文字通り金色の檻だな
15万国アノニマスさん
待ってくれ、これはペットのチワワを運ぶためのものじゃないのか?
待ってくれ、これはペットのチワワを運ぶためのものじゃないのか?
16万国アノニマスさん
運ぶのはめちゃくちゃ大変そうだ
↑ 万国アノニマスさん
中に閉じ込められるのも凄く落ち着かなさそう
17万国アノニマスさん
日本語ネイティブじゃないから輿というものを調べざるを得なかった
凄く素敵だね
日本語ネイティブじゃないから輿というものを調べざるを得なかった
凄く素敵だね
18万国アノニマスさん
これはあまりにもロマンチックだ
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コメント一覧
当時の人であってもきつかっただろ
装飾は申し分ないんだけど
安い釣りだなぁ…
まあ15点ぐらいか
舗装されてなかったから人の足のほうが乗り心地良かったらしいよ
でも輿が大きかったら揺れた時に危なそうって気もする
斉藤由貴が替え玉やるんやろ
当時の女性の平均身長が143~145cm、男性の平均が155cmだからかなり大柄
夫の家定より身長高いから籠の中狭かったと思う
小さい籠から大きい人が出てきたから初見の人は驚いたろうな
大八車を改良すりゃ簡単に出来そうなのにな
馬は足が速いため「戦争に使うもの」であり、
平民の移動手段として使うものではなかった
馬を使って車を引かせるのが許されたのは明治維新の前
山越えしなきゃだからかな?都の中だけなら牛車でいいが。
織田信長が治めてれば国道敷くのも有り得ただろうけど地域独自性は薄れたかな
15点とは大盤振る舞いが過ぎる。
甘やかしたらいかんよ。
マヌケ外人のマヌケなコメントは良い癒しになるねwwwwww
舗道もされてない山坂ばかりじゃ便利になるとも思えなかったんじゃね
より必要性の高いはずの戦だって馬が有効に機能する場面は限られていたしな
山勝ちな地形で馬車の移動範囲が狭い
あと奈良時代まであった道路舗装技術が平安時代には失われてた
奈良時代には藤原不比等の政策を受けて馬が走った程度ではびくともしない舗装道路を今の高速道路と同じぐらいの長さで張り巡らせていた
百済から伝わった技術だが平安時代に律令制が崩壊して維持できなかった
馬車無かったんじゃなくて許されてなかったのか
っていう序列があったようで、
馬を庶民に使わせるなど我慢ならん、という武家のメンツがあり
それで馬車は禁止になっていたんだってよ
牛は戦争に使うものではなく、農耕でも使っていたから
それに引かせるなら良しとか言ってたらしいで
馬車用に東海道もっと広げてたら、かつての宿場町は今ほど栄えなかったんだろうね
まあそれにしても、お姫様が40kgほどだとしても、本体は50kgを超える重量と思われ、前後一人ずつで担ぐとしたら結構きつい仕事だったろう。
乗り合い馬車を運行し始めたが
日本で馬を使った輸送が認められたのは、この2年前
ただしこのときも人を移動させる用途には認められていない
物を運ぶ用途だけ
明治維新の2年前、1867年までは
武家以外が馬を使うのは禁止されていた
現代人のような縦揺れの激しい歩き方だったらかなり酔いそう
ネコ車に高貴なオッサン乗せて運ぶやつか
>>15
私もずっと不思議に思ってました。 道路が悪いから?でも西洋だって悪路はあるし、国中じゃなくても城下町近辺ならできそうだよね。 橋と同じで反乱を恐れた将軍が禁じた?でも早籠や早飛脚とは比べ物にならないくらいメリットの方が多いし・・・少なくとも中国には馬車はあったし、その技術を取り入れた牛車はあったんだから技術的にできない訳じゃないと思うんだよね。
天上から下がった手ぬぐいねじった輪っか? を咥えてたんだよな。昔の出産の時みたいに。
まあ、お輿はゆっくりだからそこまで揺れないか。長時間あれじゃかなりきつそうだが。
籠は人の乗るもの
あとは舗装とかのコストがかかる
運搬の費用に転嫁したら誰も払えないし
そもそも高温多湿、山間部は急傾斜、馬車の運用といっても金がかかる
馬の数も大量にいる
身分制度も武家なら馬、公家なら牛だし
戦略上、馬車の移動を認めると攻められやすくなるのもあるけど
だから昔は橋よりも渡し船のほうが多かったし
いろんな要素が相まって馬車無理じゃね?っていう結論だと思うよ
※12 輿の重さも考えよう。中身より重いかも。もっと小さい神輿も中まで詰まってるとは言え、相当重いぞ。
衣装の重さも足してやれ
打掛だけでも5kgはある
牛車は遅いうえに洛中と遠出しても春日野までの公家ならがサスペンションなしでも乗ってられたろうか、道が悪ければ輿を使ったろうし。それでもまあ、車折神社なんてもんがあるくらいだから、牛車って足回りへの負荷はかなり高かったんでないかな、なにしと木製の車輪にサスペンションなしでは。
正座して座るから持ち手部分差し引いても、この程度なら十分。
なお江戸時代の一般的な移動手段は牛車。
都付近などの東海道などには車石と呼ばれる石畳が整備されてて、輿は牛車の補助的なもので、侵入者対策の庭石が敷き詰められた城内や石階段を登るために使われた。
武家への嫁入りだと駕籠になるんじゃないか
舗装の道をエアーとゴムのタイヤつけたサスつきの広い乗り物で行くのとはそりゃ違うよね
工芸品としては綺麗なんだけど
正座や胡坐ですわるならこれでも十分なサイズがあるとおもうけどね。
入り鉄砲に出女という時代だし、商人は海か川を船で、農民職人は歩けってことで、大八車くらいしか一般的ではなかったんしょ。
仮に牛車や馬車が使えたとして、峠越えるのに荷役への負担ってどうだろうね。どの道も平坦じゃ済まないし、ブレーキなんてないし。
江戸時代の峠はローマ街道みたいに規格化されたもんじゃないから車輪はむりや
とはいえ島津さんとこから徳川さんとこへはほとんど船で移動だろうし
儀典的な意味合いが強いんじゃね?
平安時代に牛車があったのに何で使わないのかなって不思議だったけどなるほどな
確かに舗装されてない道じゃガタゴトで乗り心地悪いよね
牛車の方が乗り心地良さそうかと思ってたけど道の小さな小石を踏んでも大きく揺れるから、上手に運べる籠の持ち手の方が揺れないと聞いた。
大名家のお姫様もずっと同じ姿勢を長時間保つ様に躾を受けるから籠の乗り方も心得ているでしょう。
スレに「日本人は小さい」という事を取り上げたい悪意も見える。
床に背中と頭付けて、足を天井にくっ付けたり斜めに足を伸ばしてみたり
そんなことやった偉い人、絶対いるはず
そもそも当時は街道を整備するという発想自体が
敵兵の移動を容易にするということでタブーだったしな
参勤交代で疲弊させてたことから分かるとおり当時は謀反される前提が基準になっとる
そう言えば地元が軍馬の生産地だったから
その名残りで今でも野生馬がいるわ
昔は貴重だったんだな
西洋の馬車って乗り心地悪かったのか
美智子皇后も結婚式で馬車に乗った時沿道の小石が飛んできて痛かったと言ってたね
別に籠に泊まるんじゃないんだから横になる必要ないでしょうw
籠では無く御輿に乗って江戸城入りした模様
それだけ立場が違うって事やね
大名行列は江戸への船での乗り入れが禁止されてるから東海道は基本徒歩のはず
輿を使えるのが一定の身分以上と決まってたので、大半の大名が籠に乗って移動した
そこをちゃんと「歩きで通ったかどうか」を見られていたらしい
そこを通らないと、ショートカットペナルティとして改易されかねないのだという
レースゲームか
>土砂崩れや地震のせいで車輪はあまり役に立ってなかったんだろう
朝鮮じゃあるまいし。
主要街道はかなり整備されてたぞ。
まぁそんな外の街道を長距離移動するための乗り物じゃないけどな。
4人で担いで一人当たり肩の一か所に延々25kgか。しかも硬そうだし。
100mでリタイアだなw
そもそも屋根がないじゃないか。韓国の方は。
有吉佐和子の「和宮様御留」
和宮の替え玉説
それも当たり前、国土の殆どが山岳地で平野部も丘陵地で、谷には必ず川が流れ沿岸は沼沢地になっているでは、車輪のついた乗り物は使い物にならない。
車輪付きの乗り物であったのは、道が整備された京中で乗れればよかった牛車ぐらいなものだ。
ローマは街道を石畳で整備したが、日本じゃそれやっても夏場の大雨か春の雪解けシーズンに毎年崩れてしまっただろう。自然の厳しさが違う。
まず駕篭じたいが結構重いと思う
単に石畳並べたわけじゃなくて道幅や側溝、さらには石畳の下に何層にもわたって地盤処理するとか
仕様が決まっててオーパーツ過ぎる
余計にちっちゃいわな
お輿(およよ)やな。御神輿と同じで人の肩より上に担ぐ。
ただ、ローマの様な統一政府が無かったから道路が整備されておらず、長距離移動には使われなかっただけ
重いけど、大名相手の仕事だから当時の精鋭が籠を担いでいたから、今では再現不可能な位乗り心地が良いと思う。
朝、鮮半島が、道路の整備されてなかったのと同じ理由ね。
当時の馬車は揺れ方がひどくてキツイものだったから
サスペンションのついた馬車もこの頃にはあったかもしれないけど
よほど高位の貴族じゃないとついてなかったと思う
頭結ってるんだし
畳、江戸間一畳が三尺六尺だから90×180cm
これは息が詰まるし、しんどいわ
江戸時代は何で牛車馬車があまりなかったんだろう?
農耕にも輸送にも普通に馬使っただろ。
幕藩体制下じゃ片手で数えるほどの忠義の譜代を除きゃ各藩どこも潜在的な不穏分子
軍勢を速やかに移動させられるようなハイウェイ構想など頭沸いてんのか?と、けんもほろろに即却下
ロリコーンはいまだにそんなん信じてるが、江戸時代にはそれはない
当時女性の結婚は最低でも16
遊郭の水揚げ(初夜)でも数え15
結婚適齢期が17-23ぐらい
戦国時代、前田利家正室おまつなんかはかなり若いが、あれは「レアケースだから」文献に残ってる
平安鎌倉室町ぐらいには女性の結婚は確かに数え13ぐらいだが、当時は今と違って「結納」「結婚式」の後に「床入り」って儀式があった
初夜のことではないぞ
夫婦で一緒に同じ皿から昆布だの酒だの飲むのを介添人が助ける儀式なんだが、「現代で言う初夜」は「床入りの数年後」に行われるが普通だった
床入りからそれまでは花嫁修行期間、介添人からゴーサインが出ないと手出しはできない
大して変わんねーよ。
「馬子にも衣装」の馬子は、馬を使って荷役をしていた人。
と思って調べたら担ぎ手不足と高齢化で去年廃業してて悲しい
「大名行列」自体が、大名に浪費させる目的もあったからね。
うちはど田舎、ばあちゃん、ひいばあちゃんの時代は、数えで13、4歳で嫁に行ってたと聞いたけど。勿論明治大正の話。
大津京都間のような山越えで大量の物資輸送が不可避な箇所では車石という輓曳車両専用軌道が敷設されてる例もある
平安時代に牛車で交通渋滞って、
それ、車争いなどの特殊な状況じゃないの?
街道をキレイに整備して荷車が行きかうようにすると
大名が簡単に大量の鉄砲や武器を江戸に持ち込めると考えた
それで五街道とか言っても徒歩用のインフラしかないので馬車なんか
とても無理、全部江戸を守るための政策です
封建制度じゃなくて中央集権だったら少しは違ったかもね
山道じゃなくてもサスペンションが付いてる訳じゃ無いんだからさ、小指の先程の石踏んだってエラい衝撃で乗り心地最悪なんじゃないの?
馬車禁止だったのは経済政策の側面もあったって話もあるけどな
雇用を作り出すため
まあそもそも山道だらけの日本では馬車は使い勝手悪いんだけど
この駕籠を作ってた人の子孫も今何かしてるんだろうか
きついだろうねえ
江戸時代の旗本
大岡越前とか長谷川平蔵
根岸肥前なんかの申請で痔が痛いから通勤に馬を使わせてくれって書類が残ってた筈
なお、遠山金四郎は痔が痛くて馬に乗れず、籠で奉行所に通勤していた。
幕末ものドラマや映画で、あのシーンが凄い印象的なので。
葵の上(正妻)VS.六条の御息所(愛人1号)…ファイッ(Fight)!!
馬車も普及しなかったしな
つまんね
それは農村の方が人権ないから
馬車なんて論外
だから庶民のタクシーとしても籠は発達した
タイヤがないと車輪はケツが死ぬからな
山だらけなのを切り開いたのは近代になってからだぞ
元々日本は山で各都市が分断されてる
江戸だけとか京都だけとかで移動するなら車輪でも良いだろうけどな
西洋みたいな平坦なとこと比べるとか論外
狭い範囲でな
長距離移動には向かない
あながちまちがっとらんかもな
尾上松緑
明治維新後の駕籠かきは、人力車夫かなあ?
オレの※に番号つけてロリ扱いすんな、ボケ
そもそも車輪の技術が未熟だから。大八車ですら江戸時代中期の発明だし。
牛車も未熟な車輪とスポークスがすぐぶっ壊れる。平安時代の牛車は見栄による権威ひけらかしのための道具だからな。大勢で道を履いて小石すらどかさないと数十メートルも運用できない。
江戸の大名屋敷の前でそれやったら邪魔だし一触即発やからな。
職人の技術力もアジアの中で日本だけ最先端というのも
を持ってましたねw
橋とかも、車が使えない様にワザと太鼓橋にしているわけだし。
風格が有りますなw
公家でも鎌倉以降は牛車減っていって
治安が良くなった江戸時代には儀式以外では使われなくなってた
治安が悪い時なんで使われてたかったら
あの煌びやかな牛車でも本気出すと時速30kmで突っ走れるからw
(乗り心地なんか言ってらんない、生死に関わる緊急時は馬を並走させて制御したとか)
>>113
武家の娘なので輿使える身分じゃない
理由は予算がない、運送業から仕事を奪うことになる、馬車道の整備により江戸に大軍で攻め込むことが可能になる等
あとサスペンション。
確か欧米もサスペンション発明も結構後だよね。
有名な一輪車のヤツかw
ミチミチに収まってた方が安定するってか
昔読んだ本に書いてたけど、馬車の運用を幕府に進言した者も居たそうな。
そして、>>97氏や>>123氏も指摘しているけれど、そんな便利な物ができたら各種交通産業に関わる人間が軒並み失職して政情不安を引き起こしかねんので却下。
当時の日本人にとって技術文明の上昇は社会の安定より上位の価値観ではなかったっていう話。
まぁ、外敵の侵略に備えて技術力を高める必要がなかったからこその価値観とも言えるけど。
日本で火縄銃以上の銃器が広まらなかったのも類似の理由。ホイールロック銃もフリントロック銃も西洋に遅れつつ発明した者は居たけど、幕府が広まらない様に働きかけた。
結局、日本における高度な技術と言えば、からくり人形みたいな遊び分野が多く、実用的な分野でもせいぜい和時計の様な、寺の鐘や日時計の様な代替物が存在している他愛のないものばっかり。和算なんかも高度に発達したけれど、あくまで「難解な遊び、趣味」としてであり、数学を実用的な科学技術に転用する事はついぞなく、せいぜい経理に用いるのが関の山だったとか。
あとは江戸から出ず所縁の寺社へ参詣するぐらいだしな
軽装で行って到着してから着替えるんじゃ駄目だったんだろうか?
当時の貴族の日記に、牛車の渋滞の話が載ってるんだよ。
出仕時間が決まっているので、御所周辺は渋滞したそうだ。(当然帰りも)
日記書いた貴族は下級役人で牛車に乗れる身分ではないので、夜明け前に屋敷(都の南のはずれ)を出て、徒歩で出仕。
身分の高い役人ほど、御所の近くに屋敷があった。
後は、祭礼も日が決まっているので、その日も渋滞。
上流になるほど、お付きも護衛も人数が増えるからね。
新しい発明や運用法には幕府が特に目を光らせていたみたいだね。
雇用の喪失=戦の要因になりかねないからって。
自転車も発明されていたけど残念なことに広まることはなかったね。
当時の文献だと小さい船にハンドルと車輪がついて足で漕ぐもの。
たしか再現した模型があったので興味のある方は探してみるのもよいかも。
人の通行を妨げたり、荷物の上げ下ろしで路駐して邪魔になるような車輪付きは、側道や専用道、荷物搬入の時間制限中のみ運用できたとか。
あくまでも「江戸市中において」のはないだけど。
旅芸人とかがドラマで大八車に荷物積んでノボリはためかせて引いてる姿とか、当時もあったのかなぁ・・・
運ぶ人にとってはな
サスペンション関連の技術が全く発達しなかったから結局揺れで酔いにくい現実的な乗り物は輿っていう
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