引用:http://boards.4chan.org/int/thread/68696668
スレッド「家族が戦争で戦ったという人はいる?」より。
(海外の反応)
1
万国アノニマスさん
家族が戦争で戦ったという人はいる?
俺の祖父はアルジェリア戦争に参加してたんだけど
俺の祖父はアルジェリア戦争に参加してたんだけど
2
万国アノニマスさん
祖父は第二次世界大戦で戦った
16歳の時に徴兵されたが、戦争はほぼ終わってたので特に何もしなかったんだとか
16歳の時に徴兵されたが、戦争はほぼ終わってたので特に何もしなかったんだとか
3
万国アノニマスさん
俺の1800~1950年の男の先祖は全員戦争で死んでるのが面白い
↑
万国アノニマスさん
よし、それなら次はお前の番だな
↑
万国アノニマスさん
さすがロシアだ
4
万国アノニマスさん
曽々祖父が第一次世界大戦で死んでいるけど
それ以外は無いな
それ以外は無いな
↑
万国アノニマスさん
俺のひいおじいちゃんも1914~1916年に第一次世界大戦に従軍していた
ドイツ人によって投獄されて、それ以降はドイツの農場で強制労働させられていたようだ
ドイツ人によって投獄されて、それ以降はドイツの農場で強制労働させられていたようだ
↑
万国アノニマスさん
俺のおじいちゃんも第二次世界大戦で同じコースを辿ってた
農場でポーランド人の彼女と付き合ってたらしい
農場でポーランド人の彼女と付き合ってたらしい
5
万国アノニマスさん
一人もいないなぁ
少なくとも存命中の家族の中にはいない
少なくとも存命中の家族の中にはいない
6
万国アノニマスさん
祖先たちはエミュー大戦争で戦ったよ
祖先たちはエミュー大戦争で戦ったよ
↑
万国アノニマスさん
エミューがドヤ顔で書き込んでるぞー
7
万国アノニマスさん
曽祖父は第一次世界大戦で戦ったが、本人のことはよく知らない
祖父は第二次世界大戦で北アフリカ戦線でロンメルと戦い、その後イタリアに行った
数年前、退役軍人としてバッキンガム宮殿での女王陛下との夕食にも招かれている
拒否したけどな、安らかに眠れお祖父ちゃん
祖父は第二次世界大戦で北アフリカ戦線でロンメルと戦い、その後イタリアに行った
数年前、退役軍人としてバッキンガム宮殿での女王陛下との夕食にも招かれている
拒否したけどな、安らかに眠れお祖父ちゃん
8
万国アノニマスさん
祖父:ナチス
曽祖父:ナチスを撃った
祖父:ナチス
曽祖父:ナチスを撃った
9
万国アノニマスさん
曽祖父は強制収容所で亡くなってる
収容所の警備の仕事をしていたが、不清潔なユダヤ人から病気が伝染ったようだ
収容所の警備の仕事をしていたが、不清潔なユダヤ人から病気が伝染ったようだ
10
万国アノニマスさん
祖父の兄と従兄弟は朝鮮戦争で歩兵だった
祖父自身はベトナム戦争で軍人だったけど配属されなかった
軽装甲車や戦車の乗り方を教える教官だったからね
祖父の兄と従兄弟は朝鮮戦争で歩兵だった
祖父自身はベトナム戦争で軍人だったけど配属されなかった
軽装甲車や戦車の乗り方を教える教官だったからね
11
万国アノニマスさん
祖母の従兄弟は第二次世界大戦中、ウェリントン(爆撃機)で下等種族とやらを爆撃してた
祖母の従兄弟は第二次世界大戦中、ウェリントン(爆撃機)で下等種族とやらを爆撃してた
12
万国アノニマスさん
曽祖父は1920年に共産主義者と戦ったよ
フロドナ近くで負傷したらしい
曽祖父は1920年に共産主義者と戦ったよ
フロドナ近くで負傷したらしい
13
万国アノニマスさん
祖父はナチスの武装親衛隊員で、砲撃を近距離で食らって片腕を失くし家に帰された
1944年にソ連が全面攻撃してきた時はフィンランド軍のために知的労働してた
祖父はナチスの武装親衛隊員で、砲撃を近距離で食らって片腕を失くし家に帰された
1944年にソ連が全面攻撃してきた時はフィンランド軍のために知的労働してた
14
万国アノニマスさん
祖父はスロバキア人民党の民兵(ヒリンカ)で、パルチザンと戦ってた
祖父はスロバキア人民党の民兵(ヒリンカ)で、パルチザンと戦ってた
15
万国アノニマスさん
曽々祖父は第一次世界大戦に参加していた
18歳で駆り出されてピアーヴェ川の戦い、ヴィットリオ・ヴェネトの戦いに混ざってた
曽々祖父は第一次世界大戦に参加していた
18歳で駆り出されてピアーヴェ川の戦い、ヴィットリオ・ヴェネトの戦いに混ざってた
16
万国アノニマスさん
父親はベトナム戦争中に空軍にいたけどアメリカ国内で待機してた
父親はベトナム戦争中に空軍にいたけどアメリカ国内で待機してた
17
万国アノニマスさん
祖父はスペイン内戦で戦ってたよ
祖父はスペイン内戦で戦ってたよ
18
万国アノニマスさん
祖父はホンジュラスとのサッカー戦争に参加してた
2013年に死んでしまったけど、ごく最近まで軍隊にいたことを知らなかった
死ぬ前に戦争のエピソードを聞けたらどんなによかったことか
ちなみにエルサルバドル内戦で敵同士だった叔父達もいる
祖父はホンジュラスとのサッカー戦争に参加してた
2013年に死んでしまったけど、ごく最近まで軍隊にいたことを知らなかった
死ぬ前に戦争のエピソードを聞けたらどんなによかったことか
ちなみにエルサルバドル内戦で敵同士だった叔父達もいる
サッカー戦争:1969年7月14日から7月19日にかけてエルサルバドルとホンジュラスとの間で行われた戦争。両国間の国境線問題、ホンジュラス領内に在住するエルサルバドル移民問題、貿易摩擦などといった様々な問題が引き金となり戦争に発展した。一般的には同年6月に行われた1970 FIFAワールドカップ・予選における両国の対戦と関連付けた「サッカー戦争」の名称で知られているが、この戦争の性質を端的に捉えたものではない。100時間戦争、エルサルバドル・ホンジュラス戦争、1969年戦争とも呼ばれる。
19
万国アノニマスさん
第一次世界大戦で戦わされるほど早く生まれ
第二次世界大戦でもそこまで老けてないので戦わされた俺の曽祖父
2度の大戦で戦うとか可哀想な人だったよ
第一次世界大戦で戦わされるほど早く生まれ
第二次世界大戦でもそこまで老けてないので戦わされた俺の曽祖父
2度の大戦で戦うとか可哀想な人だったよ
20
万国アノニマスさん
ポーランド人の曽祖父は戦時中にコサック兵に殺された
祖父はヨーロッパのどこかで戦い銃で撃たれている
生き延びたが1999年に肺炎で死んでしまった

祖父はヨーロッパのどこかで戦い銃で撃たれている
生き延びたが1999年に肺炎で死んでしまった

21
万国アノニマスさん
母方の祖父:第2次世界大戦の太平洋戦線で戦った
戦闘機の整備士として空軍にいたので最低限の戦闘しか見ていない
戦時中はほぼずっとフィリピンで待機
父方の祖父:第2次世界大戦に参加するには若すぎたがドイツ占領にちょっと関わった
知ってるのはこれだけで全然エキサイティングな話じゃない件
戦闘機の整備士として空軍にいたので最低限の戦闘しか見ていない
戦時中はほぼずっとフィリピンで待機
父方の祖父:第2次世界大戦に参加するには若すぎたがドイツ占領にちょっと関わった
知ってるのはこれだけで全然エキサイティングな話じゃない件
22
万国アノニマスさん
祖父はポルトガル植民地戦争で戦ったが
一切何も語ってくれない
一切何も語ってくれない
23
万国アノニマスさん
祖父と大叔父は第2次世界大戦で戦ってる
祖父はヨーロッパ戦線、大叔父は太平洋戦線だ

祖父はヨーロッパ戦線、大叔父は太平洋戦線だ

24
万国アノニマスさん
祖父はどちらもガリポリの戦いで死んでしまった…
25
万国アノニマスさん
祖父は日本の強制収容所に捕まって家族ごと大変な目に遭った
しかしそれでも朝鮮の奴らが最悪だったと語ってたよ、非人道的な奴が多かったとさ
しかしそれでも朝鮮の奴らが最悪だったと語ってたよ、非人道的な奴が多かったとさ
26
万国アノニマスさん
祖父その1:ロシアで戦車の指揮官
祖父その2:ギリシャで斥候
曽祖父その1:サラエヴォで戦った
曽祖父その2:知らない
祖父その2:ギリシャで斥候
曽祖父その1:サラエヴォで戦った
曽祖父その2:知らない
26
万国アノニマスさん
お、俺の祖父は何も悪いことしてないよ
お、俺の祖父は何も悪いことしてないよ
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ヨーロッパの人なら確実に祖先が戦争に絡んでそうですね


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コメント一覧
これ以上フェミニズムとかハロウィンとか西洋文化を強要されるのはごめんだわ
アメリカは現役の戦争じゃなくて、移民の祖先話だからややこしい
真実の歴史認識に立とう
さもないと日本弱体化は止まらない
参考YouTube動画 チャンネル桜
『【討論!】あらためて大東亜戦争を考える』[桜25.11.30]
出演、馬渕睦夫、小堀桂一郎、高山正之、他
結果は既に決まっていた、単純な数字としても圧倒的にだ
それなのにまだ戦いを挑んでくる、屁理屈ばかりを武器にな
敵は自国メディアじゃね?
爺さんの弟は南方に往く途中米潜水艦に沈められた。
母は満州旅順から逃げて来た。母方の父は満鉄職員。ロスケが家に土足で入って来て金目の物を全部奪われた。婆さんは幼い母兄弟を抱えて隠れていたらしい。若い女性は連れ去られて帰って来なかったそうだ。
昼間なのにどうして青森の方だけ、あの辺だけ空が夕日の様に赤いんだろう?って近所の子らと不思議がって眺めてて、後にそれが空襲だったと知ったそうだ。
真珠湾の軍事施設に対する奇襲の報復が各地市街地への空襲か?それもこんな田舎にまでかよ?と思って長い事アメリカを毛嫌いしてたと言ってた。今は少なくともそういう言動は見せない。
訂正。旅順→撫順。
帰って来たけど60歳で亡くなったのはシベリアでの無理が祟ったのだろうか
俺が小学生の時に興味をもっていろいろ聞いたが、戦争当時の事は何も語ってくれなかった
大きくなってから興味本位で自分で調べたらじーちゃんが語りたくなかったことが良く理解出来た
あのような地獄を小さい俺に聞かせたくなかったんだろう
そのじーさんも昨年戦友のもとに旅立った
そういうとこだもの
みつを
郡山城?から逃げ出したお侍さんなんかが峠の出口で追いつかれて、首なし死体がわんさかあったという言い伝えがある。
昔は祖父母から、夕方を過ぎてその古戦場辺りにいっちゃいかんとよく言われてた。
今でもその辺り、峠への道を森へ入っていったとこで、定期的に遭難か自殺か、そんなに険しい森や山でもないのに死人が出る。なので結構コワイ。
恨みばかりが残る国になる。
長崎に落とされたヤツが小倉に落ちてたら間違いなく死んでただろうし、俺がここで書きこみしてる事も無かっただろう
本人は仲間とは言ってるw
母方の祖父の兄弟は陸軍中佐で南京にいたが、米中の言う南京事件は全くの嘘と言ってた。よくもてたらしい。
カミさんの叔父は早稲田の学徒動員で南方に行って米軍捕虜となり通訳で復員が二年遅れたが家族には運が良かったとしか言わず戦争の話は一切せず。
三人とも鬼籍に入られた。
日本人なら祖父母は従軍していなくとも、祖父母の親か兄弟レベルまで広げたら誰かしら靖国に祀られていそうだけどね。うちは父方祖父が戦地へ行き生還して、故郷で起業し90まで生きた。母方祖母の兄がフィリピン沖で魚雷喰らって戦死。
小学生だった祖母は竹槍訓練していて、中学生だった祖父は船の仕事手伝っていて、山本五十六を乗せたこともあるとか言っていた。後に貨物船の船員となった祖父が仕事でフィリピン沖に行ったから妻の兄のために献花してくれたそうな。この祖父に関しては戦後の方が興味深いエピソードが多い。米兵乗せたら機嫌が良くて、自動小銃撃たせてくれって頼んだら貸してくれたから海上の空き缶狙って撃ってみたとか、米国人に犬を運んでくれと依頼され、預かったドッグフードが旨そうな肉の缶詰で、「犬の方が良いもの食ってるな」と腹が立って缶詰は船員が美味しくいただいたとか、何処かの国の酒場で英国人と喧嘩になって、独逸人と組んで殴り合いになってブタ箱に入れられたとか、そんな話が尽きない。
そういえば千人針しゅっちゅう作ってたって祖母が言っていたなぁ。私に「お前は寅年だから、あの時代に居たら重宝されて大量に回されただろう」とも。
そのせいか近所の風当りが強くて山奥に引っ込んだそうだ
「お国の役に立たない非国民」と批判されてな…
まぁ、おかげで空襲も避けられて一族全員無事だったし、
大工の腕も磨いて戦後復興で役に立てたらしいが
米をたくと煙でバレるからわざわざ山に登って何箇所でも焚き火を起こして場所をわからないようにしてたそうだ
津山の轍を踏まなくて良かったね。
ばーちゃん家は炭屋だったから、いつまでも炭が燃え続けたって言ってたな。
バカなの?
うちの父方祖父はもう鬼籍に入ったけど、若い頃従軍していた。母方の祖父が「そういえば、父方祖父さんが銃持ってるのみせてもらったことあるんだが、あれはどうなったんだ?要らないなら譲ってほしいな」と父方祖父が亡くなった後なんとなく呟いていたんだけど、そんな物騒なものの存在は父も伯父も覚えていないと言う。
もし本当にあったなら、今でも伯父の家の何処かに置きっぱなしなのだろうか。あまり整理していない部屋とかあるんだよ。刀剣はコレクションしていた祖父だから、もしかしたら銃も持ち帰ってきてしまったのでは…。
頭に血を上らせてる書き込みを見るに妥当な処置であろうとは思うんだけど、コピペ荒らしは放置なの不満です。
途中サイゴンから送られてきた、手書きの絵葉書を親は大切に保管していて、ワイに見せてくれた事がある。
最近は戦争体験=戦争のあった時代・国に生きていた人々の体験という意味も含まれる使いかたしてるのはなんでだろう。
平和ボケのやつは総力戦でググれ
叔父(故人)は戦後シベリアに抑留されたが、従軍前に機械工だったこともあって、
現地の工場の製造機器のメンテ作業をさせられていたとか。
おかげで重宝されて(地元の娘との縁談もあったらしい)それなりに待遇が
良かったらしいけど、重労働を強要させられていた仲間は次々と死んでいったらしい。
その叔父の兄弟は海軍陸戦隊に所属して中国~東南アジア辺りを転戦。
所属していた部隊(100人程度らしいから中隊クラス?)のメンバーは最終的には
一桁まで減ってしまったそうで。
戦時下の体験なら含まれてもいいんじゃないでしょうか?
日露戦争では勲章貰ったぞ
戦勝・敗戦国とか関係なしに何処そこで戦ったとか
イデオロギッシュな書き込みは山ほどあるけど
国家総動員法というのがあって、総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できるんですよ。
これのメリットは国力すべてを戦争につぎ込めること。デメリットは敵対する国に「戦闘員・非戦闘員や、軍事施設とただの町工場の区別なんてつかないから、全部爆撃しちゃっていいよね?」という口実を与えてしまうこと。
だから戦地に行った男手の代わりに日本国内で色んな仕事を手伝っていた女性や子供も軍属といえば軍属なのです。悲しいことだけど。
祖父の親戚が参加してたぐらいかな。
まぁご先祖様は戦国時代の武将だけどね…
最も楽しいはずの20代のほとんどをあそこで暮らしたって事をめっちゃ悔やんでいた
日本に返ってくると貯金があった自分の口座は封鎖されていて金もなくそっからがんばったと
ただその後に行ったシベリア遠征の時は
サハリン派遣軍の電信隊所属の野砲兵だったらしい
日中戦争の時も再招集がかかって行ったが、泥沼になる前に帰ってこれた
帰ってくるときは栄養失調で立てる状態じゃなかったって言ってたわ
アメリカ兵のこともなんか色々言っていたっけ..。
よく聞いておけばよかったな。
母方の祖母は樺太にいた。父方の祖父も樺太にいた。
ソ連が攻めてくるっていうから、船に乗って必死に北海道まで船に乗ってきたらしい
子供を優先して乗せた船(父方のじいちゃんの前に出向した船)がソ連に撃沈されたらしい。
亡くなる前にふと聞いてみたんだけど、その時母方のばあちゃんはボソッと言った
「ソ連は大嫌いだ」って。
戦後まで祖父が五体満足生き永らえた所を見ると日本共産党が言うアカ狩りと言うものは
そこまで厳格な物では無かったのでは?という感想が出てくる。
夜中、森のなかなんか光ってる。敵か!?
牛の目でした。
終戦。部隊には武器はあるが足がない。近くを別の部隊のトラックが通る。トラック隊は武器がない。
じいちゃん、交渉してトラックに乗っけてもらう。
弾丸飛び交うジャングル。打ち返すじいちゃんら。次々と玉に当たってトラックから落ちる仲間たち。
なんやかんやで、日本に帰国。阪神大震災の年の夏亡くなった。震災で病院が無茶苦茶になって透析が出来なくて、体に毒がたまったから。
今の日本じゃ中国にも勝てないと思うよ
徴兵しない限りは
俺の祖父は戦時中の話をすることが余りなかった。あまり思い出したくないのかなと思った。
覚えていることを列挙すると、
①ロシアはとにかく寒かったこと。凍傷に罹って鼻がもげた同僚がいたこと。大便を排泄した後にそのまま凍ってトイレに山のようになっていたこと。
②祖父がロシア人やアメリカ人を悪く言っていることは聞いたことがなかった。が、戦後に北に渡った人たちが悲惨な状況下にあるのは自業自得だと言っていた。キムチ嫌いの祖父がキムチ好きの祖母に小言を言ってたことから朝鮮を好意的に見ていないことはそれとなしに感じた。
近衛も部隊によりけり。
外地に行った近衛の部隊もあるから。
戦死証明みたいなのが家に残ってる
これについては戦死したおかげか知らんが
その時の恩給で土地が買えて家の畑が増やせたみたいな話が残ってる
>子供を優先して乗せた船(父方のじいちゃんの前に出向した船)がソ連に撃沈されたらしい。
うちの母方家族(阿幸住まい)と同じ船に乗ってたかも
目の前でもう一隻の船が撃沈されたと母が言ってた
父は祖父に連れて行かれそこで嗅いだ人が焼ける臭いは、表現の仕様が無くて説明できないけど死ぬまで忘れないだろうと言っていた。
後日広島に新型爆弾が落とされたとラジオで聞き、急いで海岸沿いにある小高い山に走って広島の方角を見るて、キノコ雲が上がっていたのを目の当たりにしたと話してくれたけど、なるべく気持ちがこもらない様に淡々と話してたのが印象的だった。
十歳で兄が戦死し、人が焼かれ町が焼かれた光景を見た父は六十で亡くなった。
もっと聞いておけば良かったと思うけど、後の祭りだわ。
二次大戦でのことなら、近衛でも部隊によりけりだね
特に近衛第二師団ならマレー・シンガポール攻略戦に参加してるし
ネズミ食べたことしか話さなかったな
脚に銃弾痕あった。傷が化膿して高熱で暴れた時は木に括り付けられたらしいw
歩けない仲間を背負って夢中で逃げていて気づいたら下半身が無くなっていたと聞いた・・・
すごく無口で、ただ寡黙に何か修理している姿を今でも思い出す。酔ったら戦争の話をちょこちょこしていた。物資が届かず食べ物が無くジャングルで草やカエル食べてた。食べた者だけが生き残れたって・・・
あとは如月の航海長やってたがウェーク島攻略で戦死した親戚がいたはず。
コレって、戦地に行った人達はみんな貰ってたのかな?
うちにも有るから皆んなもらっているかも知れない。ただ、別件でも謁見したから別の銀盃かも知れないけど。
生前良く台湾の人に会いに行ったり電話したりしてたけど、戦時中の話はしてくれなかったわ。聞くのも申し訳なくて聞けなかったし。
新聞がまっすぐ置かれてなかったりメガネが定位置になかったりその他諸々まっすぐと定位置に異常な程こだわる人でその通りじゃないと怒鳴り散らすかなり神経質な人だったらしい
余りにも神経質なもんで母ちゃんははよ氏ねと常日頃から思ってたそうだが今考えるとあんな神経質な人間がシベリア抑留なんて耐え難かったやろうなと言ってたわ
婆ちゃんは婆ちゃんでボケてもうてから戦争の話ばっかりや
食事中に空襲後に女学生たちで遺体回収するんやけど牛車の牛が丸焦げになって脂がバターみたいに溶け出てたとかお酒禁止されてたからみんな隠れてどぶろく作ってたとか言うから飯がまずくなるんで正直やみちくり~と思う
ワイも最初何回もNG出て腹たったけど最近コツ掴んだのか弾かれないわ
まあ良いことなのかは分からんけどね…
じいさんたちとはまったく話す機会がなかったけど祖母の話は幸運にも生前に聞くことができた
戦中は東芝だかどっかの工場に勤めてて東京空襲のときはみんなで川に逃げて川縁にしがみついて空襲が終わるのを待っていたと
戦後は闇市やってたらしい笑
大学の授業でレポート発表したら闇市の話をもう少し詳しく聞いて欲しかったって先生に言われたなあそういえば
広島か広島の近くに行っていて、列車に乗って移動しているときにその中から投下された原爆のキノコ雲を見たらしい。
子供の時の夏休みに、祖父がその時のことをノートパソコンで手記としてまとめていたのは覚えているんだけど、その手記は見つからなかった。
どこかに体験談として送ったのかな。
中国で現地の人に病気だからと薬を乞われて、とんでもないもの渡して(病が治るわけないし、そのまま死にかねないもの)、お礼を言って帰っていくその人を仲間たちと嗤ったり
だから日本軍が、今のネットの人が望むほど品行方正だったとは思ってない
それでも、そういう歳を経ればひどいと自身でも思える行為でも話してくれるから、一般の人を殺して回ったりとかは無かったんだな、と思える
シナ人にされた事を知れば知るほど、自分も同じ事するかも・・・って思うわ。
錆びた銃剣が昔家にあったな。
で、南方に行くことになって死ぬと思って別れを言いに実家に帰ってきたらしい
そんで横ナントカっていうところに行ったんだけど軍艦が無くてしばらくすると実家に帰ってきたそうだ
戦争を生き延びてよかったと思う…本当に
長門とかいてナガトと呼ぶらしい
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