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スレッド「祖父から聞かされた戦争の体験談」より。
(海外の反応)
1
万国アノニマスさん

みんなの祖父が死ぬ前に聞かせてくれた戦争の体験談を教えてほしい
2
万国アノニマスさん

祖父は志願兵で東部戦線にて死んでしまったのでエピソードを教えてもらってない
SS(ナチスの武装親衛隊)だったらしいが、家族は今でもそれを秘密にしている
3
万国アノニマスさん

祖父はイエーガーマイスター(ドイツのリキュール)でベロベロに酔った数回だけ戦時中のことを話してくれたな
幼なじみがまさに目の前でふっ飛ばされたらしい
それからの人生ずっと悪夢に悩まされ続けているらしい・・・・
4
万国アノニマスさん

祖母がインドネシアで憲兵やってて日本人を殺した話をしてくれた
そして、いかに日本人は魂がなく子供を拷問で殺したかも教えてくれた
5
万国アノニマスさん

おじいちゃんは当時18歳で空軍パイロットに任命されたが、
訓練が終わる前に日本が降伏してしまったらしい
6
万国アノニマスさん
自分が生まれる前に日本兵に殺されたので体験談とかは知らない

自分が生まれる前に日本兵に殺されたので体験談とかは知らない
7
万国アノニマスさん

母方と父方、どちらの祖父も生まれる前に死んでしまった
父親は一人っ子だったから徴兵されなかったし、我が家には戦争の体験談というものが無いわ
8
万国アノニマスさん
父方の祖父は生まれた時点で88歳だったので記憶に無い

父方の祖父は生まれた時点で88歳だったので記憶に無い
母方の祖父はスペイン内戦勃発時、未成年だったので回避出来たとは話してくれた
9
万国アノニマスさん
祖父はドミニカ人

祖父はドミニカ人
第二次世界大戦のときの話といえば、ユダヤ人は農家に向かねえと言うくらい
アメリカ国民は、戦争で亡命してくる奴らに不安を覚えていたようだ
戦時中のアメリカ人労働者を要約してるようなもんだよね
10
万国アノニマスさん
体験談ならあるぞ

体験談ならあるぞ
イタズラとして上官に猫肉で作ったサラミをプレゼントしたという話を1度だけしてくれた
11
万国アノニマスさん
まだ祖父は生きてるけど・・・彼の言葉を借りればドイツ人はそんなに悪い奴らでもないそうだ

まだ祖父は生きてるけど・・・彼の言葉を借りればドイツ人はそんなに悪い奴らでもないそうだ
↑
万国アノニマスさん

自分の祖父も戦時中は子供だったけど、ドイツに関するものは何でも大好き
ラップランド戦争(ナチスドイツとフィンランドの戦闘)が起きるまでは、フィンランド人にとても優しかったらしい
12
万国アノニマスさん
戦争に関する話は全然聞かせてくれないわー

戦争に関する話は全然聞かせてくれないわー
片方は太平洋戦争に参加した船医で、まったく戦争のことを話してくれない
片方はヨーロッパに従軍、父いわくドイツの偵察機を撃墜したらしい
私が5歳のときに亡くなったから直接聞いたわけじゃないけどね
13
万国アノニマスさん
体験談というのは無いな

体験談というのは無いな
自分が6歳のときに死んだ祖父は通信兵として東部戦線に参加し捕虜になったとか何とか
もう片方の祖父は戦争が始まったとき10歳だったらしい
14
万国アノニマスさん
俺も体験談は聞かされてない

俺も体験談は聞かされてない
刑務所でドイツ人に殺されたから
15
万国アノニマスさん
どっちの祖父もまだ健在、片方の祖父は日本軍についての回顧録を書いている

どっちの祖父もまだ健在、片方の祖父は日本軍についての回顧録を書いている

16
万国アノニマスさん
祖父は日本が侵略してきたとき漁村に住む若者だった

祖父は日本が侵略してきたとき漁村に住む若者だった
レーダーを回避するために水面ギリギリを飛ぶ零戦を見たらしい
その後、日本人の司令部によって役所が占拠されたという
日本兵は悪い人ではなかったが、その司令部はひどかったらしい
香港から撤退する時はほとんどの建物に証拠隠滅&追跡されないように火をつけた
建物自体は無傷だったが内部はボロボロだったらしい
当事の日本兵は謝罪してないが、その後謝罪した記憶はある
あと話してくれた内容としては日本兵は週6回おにぎりを食べ、日曜日は刺し身を食べるらしい
17
万国アノニマスさん

祖父は第二次世界大戦・朝鮮戦争・ベトナム戦争に参加したしまだ生きてる
湾岸戦争にも何とかして参加したかったらしいが年齢的にキツかったらしい
18
万国アノニマスさん
おじいちゃんは97歳だけど、いまだに戦時中のことを話してくるわ

おじいちゃんは97歳だけど、いまだに戦時中のことを話してくるわ
19
万国アノニマスさん
祖父がよく話してくれるよ

祖父がよく話してくれるよ
彼は神風特攻隊のパイロットでアメリカの船をたくさん沈めたってね
↑
万国アノニマスさん

Kamikazeのパイロットがどうやって体験談を話すんですかねぇ・・・
20
万国アノニマスさん
悲しいことに、自分が幼いころに祖父は亡くなってしまったから1度も会話してない

悲しいことに、自分が幼いころに祖父は亡くなってしまったから1度も会話してない
母親もほとんど戦争のことは教えてもらってないらしい
分かってるのは未成年で入隊しようとして姉に引き止められたこと
結局18歳で入隊しパプアニューギニアに駐留したこと、
高射砲(対空砲)の砲撃手だったらしいが、ただの1人も殺したことがないこと、それくらいかな
21
万国アノニマスさん

祖父はナチスと結託して村に引き入れた最初のひとりらしい
ポーランドがナチスから解放されたあと、村で最初に共産主義者と結託したのも祖父らしい
↑
万国アノニマスさん

最高だな、お前の爺ちゃん
22
万国アノニマスさん
父方の祖父:1945から1955年までシベリアでソ連による強制労働。まだ存命中。

父方の祖父:1945から1955年までシベリアでソ連による強制労働。まだ存命中。
母方の祖父:存命中だが兵士ではない造船所で軍艦を作っていたらしい
ちなみに造船所は小倉という場所で、アメリカが広島の次に原爆投下を計画していた都市ね
長崎に変更されたけど
23
万国アノニマスさん

祖父は私が生まれる前に死んでしまったよ
ちなみに祖父の兄は継続戦争(第二次ソ連・フィンランド戦争)の終戦日に死んでしまった(;_;)
ちなみに祖父の兄は継続戦争(第二次ソ連・フィンランド戦争)の終戦日に死んでしまった(;_;)
24
万国アノニマスさん
戦争が勃発したとき、祖父は大学生で祖母ともすでに出会っていたらしい

戦争が勃発したとき、祖父は大学生で祖母ともすでに出会っていたらしい
ドイツへの忠誠を拒んだので戦時中は身を潜めていた(見つかったら強制収容所行き)
その後はオランダのレジスタンスに参加したとか何とか
25
万国アノニマスさん

祖父は当時若すぎた、曽祖父ならちょうど世界大戦2つに参加したらしい
第一次世界大戦ではセルビアとロシアを相手に東部戦線で戦った
第二次世界大戦ではユーゴスラビア・ギリシャ・ロシア相手に戦った
悲しいことに私が生まれる前に死んでしまったが、家にはまだ彼の戦争日誌が残っている
26
万国アノニマスさん
1度だけおじいちゃんに第二次世界大戦の話を尋ねたが

1度だけおじいちゃんに第二次世界大戦の話を尋ねたが
地方特有の訛りが強くて何しゃべってるか理解できなかった
もう2度と尋ねることはないだろう

27
万国アノニマスさん
祖父は戦時中、ノルウェーとフィンランドの国境沿いでスキーして遊んでたと語ってた…

祖父は戦時中、ノルウェーとフィンランドの国境沿いでスキーして遊んでたと語ってた…
28
万国アノニマスさん

祖父はスペイン内戦中は5歳だったらしいが、クールな体験談ならある
ナショナリスト派が我が村を爆撃していたが曾祖母はシエスタ(昼寝)していた
爆撃音で彼女は目が覚めて言った言葉が「みんなドアを閉めて!風が強いよ!」と家族に叫ぶ
そしてまたシエスタに戻っていったそうな・・・・
まぁ半分ステレオタイプジョークか何かだと思うけど
29
万国アノニマスさん

祖母は第二次世界大戦当時は子供だけど、ナチス兵の話はしてくれた
1940年、ナチスが侵攻してきてとき祖母はまだ6,7歳
ドイツ兵に呼び止められ、マッチを買ってきてとお金を多めに渡されたという
幼い祖母はマッチを店で買い、兵士達に渡したが何もご褒美はもらえず、失せろと言われたそうだ
ナチスはなんて高圧的な政権なのでしょうか
30
万国アノニマスさん
母方:ドイツ兵でベルギー・ポーランド・ユーゴスラビアで戦い、ベルリンが制圧される2日前にアルゼンチンに亡命

母方:ドイツ兵でベルギー・ポーランド・ユーゴスラビアで戦い、ベルリンが制圧される2日前にアルゼンチンに亡命
父方:フランス兵で北アフリカで戦闘していた、祖母とはアルジェリアで出会ったらしい。彼らも戦争が終わる1年前にアルゼンチンに向かった
31
万国アノニマスさん

フランス人の祖父は国鉄でサボりながら働いてた、同じくサボってた友人は処刑されたらしい
ロシア人の祖父の素性は全然知らないが、迫撃砲の射撃手ということまでは分かってる
かなり興味があるが、そういったことを尋ねるまえに死んでしまった
32
万国アノニマスさん
祖父は日本と戦った兵士でまだ存命中

祖父は日本と戦った兵士でまだ存命中
モシン・ナガン(小銃)で日本人の仲間であった中国人をたくさん殺したそうだ
33
万国アノニマスさん
祖父は朝鮮戦争中に北部の故郷から南部に身を移した

祖父は朝鮮戦争中に北部の故郷から南部に身を移した
もちろんまだ存命中
↑
万国アノニマスさん

なんという賢明な判断
34
万国アノニマスさん

曽祖父について知っていることは
赤軍としてドイツと大砲で戦って勲章をいくつか得たこと
95歳まで生きていたが、個人的には記憶が無いんだよね
35
万国アノニマスさん
祖父はドイツ軍が占領してきたとき7~10歳

祖父はドイツ軍が占領してきたとき7~10歳
ドイツ兵に向かって石を投げたが見つからなかったそうだ
あと共産主義者40人くらいを村で処刑したとも話してた
36
万国アノニマスさん

片方は記憶が無いし、片方は絶対戦争のことは教えてくれなかったわ
コメント ※httpや特定の単語をNGワードに設定しております。また、不適切と管理人が判断したコメントは削除致します。ご了承下さい。
コメント一覧
撤退時の通常措置だと思うけど。
お話が出来る祖父がいた方が羨ましいです
400年も植民地支配をしてれば、それくらいの報いは受けて当然。
引き上げのとき
アジア中のインフラぶっ壊すべきだった
マジで ほかの国もやってるし
日本にオランダから追放されるとはw
むしろオランダ人女性って日本に負けた後、進んで日本の慰安婦になろうとしてた
証言が無かったか?それを許可したら戦後逆恨みされて処刑された兵士が居たとか
祖母は近くの軍需工場に動員されて働いていた
軍需工場の目付けの陸軍軍人はひどく横暴で工員達に対して暴力を振るっていたと聞かされた
祖父は第二次世界大戦・朝鮮戦争・ベトナム戦争に参加したしまだ生きてる
湾岸戦争にも何とかして参加したかったらしいが年齢的にキツかったらしい
本当なら侍に匹敵する戦士だな。
オランダ人慰安婦のところはさすがに頭悪すぎ
世に言う「広島の原爆」であった。
私は平和学習でそれを絵に書いたけど、今思い返すと使ったクレヨンは「赤と黒と茶色」だけでした…。
その祖父は最後ボソッと「もうこんな辛い時代はお前は過ごすなよ」っと、心臓の手術の後遺症で滑舌が悪い中言ったのを今でも覚えてます。
父親の世代も戦死した兄弟は居ないし空襲は有ったけど家は焼けてないと言う(阪神淡路の震災で半壊した後立ち退きで潰したけど)
運が良いんだな、父方の家は
いや、別に例の話とこじつけたいんじゃないぞ
自分も記憶があやふやだから間違ってるかも知れないが
東京裁判で処刑された人がいたはずだ。調べれば証言とか出てくると思う
立場が完全に逆転してしまった事に対しての嫉妬だろう
連中は連合国の中で最弱だったろ。中国より粘りが無かった
今度もっとしっかり聞く。
大阪の高槻上空で日本軍とアメリカ軍との空中合戦をよく小高いとこから「見学」してたとか。
おおー、やっとるなー、とか
今日はねばるなー、とか
のどかに楽しんでいたようです。
そのじいさんはどうやら南方へ行ってたようだ。
仲間の大半は戦地で死んだけど、玉が当ったんやない、みんな餓死で死んでしもたんや
と何度も聞かされた。
白人の植民地のままなら今ごろ対等になってて発展してたとな。
処刑された日本兵の手記にそのようなことが書いてあったようだよ。
どこの国かは聞いてないけど捕まって強制労働させられたって。岩?を洞されたとかなんとか。笑いながら教えてくれた。生きるのに必死だったみたい。戦争で死んだ友の写真は死ぬまで持ってた。もっと聞いとけばよかった。祖父が生きてる人は聞いておくべきです。
救いようの無い嘘・・・哀れすぎる・・・
祖父は第二次上海事変で上陸作戦。部隊が凄まじい損耗を被り、南京攻略から外され台湾で部隊再編。
上海では、国民党軍の機関銃を奪い、親戚の曹長の遺体を背負いながら、逃げまくった体力お化け。
どうしても曹長の遺体を故郷に戻したかったが、死人は生きてる人間より重いらしい。
生きてる人間は自分で掴ってくれるが、死人は米袋と同じただの物体なんで、半端なく重いらしい。
戦争の話をすることもなく、自分が子どものときに死んでしまったからなあ
医者にとめられていた酒タバコを死ぬ直前までやっていたわ
でも徴兵されたらしくてマニラでアジア人だから日本人と思われゲリラが襲ってきたので死亡。今はシンガポールで眠っている
満州にいたらしくて、その頃の写真がいっぱいある。
数十人が映ってる写真の下に、自分以外すべて戦死とか書いてあったりて涙が出た。
でも中国人の人達ともいっぱい写真撮ってて、楽しそうに笑ってたりしてる。
戦争の話は直接聞いたことがなかったけど、聞いておけばよかったなあ。
うちの祖父もフィリピンで戦死して、今は靖国にいますわ
東南アジアのジャングルで、部隊で非常食として飼育していた豚を大蛇に丸呑みされたと聞いた。部隊総出で、刀や銃剣でメッタ刺しにして煮て食べようとしたらしいが、固くてゴムみたいでとても食べれるものじゃなかったと聞いた。
当然船と一緒に沈んだんで、名簿に名前が載ってるらしい。
自分は名簿すらみたことないけどね。
まだ25才くらいだったそう。
やっぱりそのことで当時周りにあまり良く思われてなかったらしい。
俺の知ってる祖父は厳しさとかは全くなくて優しいイメージしかなかったから、それ聴いてすごい意外だった。
祖父は南方で飛行機飛ばすため気象をしらべる仕事してたとか 毎日 風船飛ばして調べたとかいってた。
あとマラリアにかかって死にかけたとか、、、
帰国後 お見合いで祖母と結婚のながれ
「たくさん沈めた」ってことはないだろうが神風のパイロットは何人も生き延びたんだが、まあその辺はポーランドの知識レベルってことか。
オランダは奴隷拷問するために作った建物にオランダ人自身がぶち込まれて大恥かいたことまだ引きずってんのかー?ww
植民地の解放はされるべくしてされたものだから日本はほんと逆恨みされることが多いなあとおもうよ。
ウチのじいちゃんなら一応は顔出してるだろうしね。中国で軍馬の獣医だったそうです
本当にすごい人だよ
コメントずっと見てたら気が重くなったからやめた
黙祷
シベリア帰りってのは知ってるけど
母方曾祖父は支/那/事/変
でもその頃はそういう話に余り興味無かったもんで
今になってもっとしっかりと聞いとくべきだったと後悔してる
ごめんよ爺ちゃん
ソ連人にひどいことされたらしくて全く話してくれない。
ばあさんも子供だったけど、印象に残ってるのは「蒸発しかけてる川に黒焦げの人間が熱い熱いと言いながら飛び込んでいった光景」だそうだ。
母方の祖父は空襲時に兄弟9人で父(医者)の手伝いをしていた。空襲で祖父以外の家族はみんな死んでしまった。1人ぼっちになった後に敗戦し、米兵に占領された。親しくしていた近所の2人の女友達が疎開から帰ってきた後に、米兵にレ〇プされて2人とも自殺してしまった。
敗戦後って日本の警察は米兵を罰することは出来なかったのかな??
内容を教えてもらってないはずなのによく酷すぎたって分かってるね
超汚染神や厨極神も同じなんだよね
不思議
なんと言っていいのか分からないがとにかく当時は占領されていたからな
もちろん日本の警察に力があるわけないし当時はプレスコードといって報道内容とかも制限されて方向も決められていたから絶対に米兵の残虐行為は表沙汰にならなかったんだよ
日本がした朝鮮併合とは違って本当の侵略を受けたんだよ
父方の祖父は何も語らなかった。
私が生まれる前にどっちも亡くなったけどね。お話してみたかったよ、おじいちゃん。
ネ.ト.ウ. ヨが好きなヒト.モドキって言葉の英語的言い回し
戦争は確かに辛かったけど帰って来てから付き纏って来た
左翼連中の方がロシア人より性質が悪かったと言ってたな
シンガポールも香港もフィリピンもマレーシアもベトナムもインドもインドネシアでさえも、
白人のおかけで発展したのは認めてるが、内心は白人統治の方が発展には良かったと思ってても
やはり自分たちの手で自立して進みたいと思ってるよ。
戦後のODAと一部義勇軍兵士には感謝してても、
日本の占領統治時代は最悪だったといってる国がほとんどだけど。
辛い記憶だがだからこそちゃんと伝えるべきなんだがなぜか墓までもってくアホが多い
子供の頃に祖父の物と思われる軍刀を見つけて恐怖す
戦勝国の先進国を悪くいうのと戦犯国の負け犬
どっちを悪く言いやすいかな?
そんなこともわからないのかな?
映像も残ってるからな、日本と違って
今でも樺太時代の同級生と同窓会をする。樺太出身者の同窓会は地域ごとに結構行われてる模様。
尚、北海道在住のため樺太出身の人は結構回りにいる。その中の一人に真中郵便局で働いていた人もいる。
祖父は、中国に派遣されていたらしい。終戦直前に沖縄への移動を命じられたが、中国で終戦。
尚、祖父よりも一足先に沖縄へ移動した戦友たちは沖縄でほぼ戦死したとのこと。
祖父から直接聞いたわけではないが、親戚のおじさんがそういってた。帰ってきた時には誰かわからないほどガリガリに痩せていたとのこと。
生前の祖父は物凄く寡黙な人で怒ることもなかったが、祖母が自分に疎開中の話をした時に一度だけ「そんな話をするな!」と怒ったことがある。
毎年必ず、広島と長崎の追悼式典のときにTVの前で立って合掌してたから、孫の自分には一切戦争の話をしなかったけど、色々な思いを抱えてたんだろうなと思う。
インドネシア統治みたいなのが白人のデフォで、
朝鮮台湾統治みたいなのが日本のデフォだと勝手に思い込んでる人でもない限り、
日本に占領された東南アジア諸国が日本の統治は最悪だったというのは
普通の感性の持ち主なら当たり前だけどね。
まあインドネシアにすらも日本は史上最悪だったと言われてるけど。
真中郵便局ではなく真岡郵便局
アジア人が歴史認識戦争で白人に抵抗できるとは思えない
世界中で戦勝国側の歴史認識がデフォ
戦える力があるのは日本だけ
ラバウルと、満州かどっかに居たらしい。多分どちらも非戦闘員で、ラバウルに行ってた方のお爺ちゃんは現地の人に良くしてもらってたみたい。
あと現在も元気な隣の家のじーちゃんは南京に居たらしいけど、こっちも現地の人とお酒飲んだりしてたって言ってたなぁw
一発も銃を撃つことなく終戦で帰って来たらしいけど、未だに軍服大事に持ってるらしいわ。
オランダが作ったインドネシア人を入れる劣悪な強制収容所に自分達オランダ兵が入れられたから逆恨みしてるんだよなw
室蘭。祖父
爆撃→割とあっという間に終わる
艦砲射撃→嫌になるほど延々と続く
爆撃→ひとまず防空壕篭ってれば大丈夫
艦砲射撃→防空壕なんか戦艦主砲の前では紙風船みたいなもの
あと、艦砲射撃の後は敵部隊上陸や空てい部隊降下というのが定石と思われていたので、その恐怖もあったとか。結局何も来なくて拍子抜けしたらしい。
戦後の視点から見ると昭和二十年七月に北海道に米軍の上陸作戦なんか起こらないのは知ってるけど、当時の室蘭にいた日本兵から見ると「ついに来たか。日本終わった」的な感覚だったようだ。
体験者がいざ語り始めても気に入らない内容であれば聞く耳を塞ぎそうな輩もいるんでそうケチつけないでください
むしろあんたが取材力培って聞き出してください
名目で一番狙われる役職になったと言っていたな戦略的に重要だから
今更遅いだろ。先進国の席は既に満席だよ
いくら国力が増えようともそれは烏合の衆
自力でやり抜く武勇と先進性を持たぬ、
最初から戦う事すら放棄して脇役でいいやと腐ってる
連中にこの世界を支配する資格なし
どうもそのことでご近所と折り合いが悪かったらしく、
本人もコンプレックスで祖母から「戦争の事は聞かないであげて」って言われたw
祖母の方は航空工場で働かされて、当時としてはかなりの好待遇で、寿司やケーキ、コーヒーが出たって。
戦時中にあって飢えや生命の危機的な経験は一切ない、かなり幸運だったらしい。
ただ、米軍の爆撃機がしょっちゅう空飛んでて生きた心地はしなかったって。
あと、近所に朴さんという朝鮮一家が住んでいて、お互いの家に遊びに行き来する中だったらしい。
祖母が認知症になる前に聞いた話。もっと詳しく聞いとけばよかったよ
パイロットの顔が見える位の距離からタタタタタって軽快な音がして、キャベツや畑の土がボスボス爆ぜて、死を覚悟したらしい。
多分、何機かで空襲して来た帰りに気紛れに他の機と離れて、たまたま見掛けたばーさんをゲームみたいに撃ってきたんじゃなかろうかって言ってた。
自分が子供の頃、妹にお菓子を取られない様に隠してたら、ばーさんにイントクボシって言われて何の事かわかんなかったけど、大きくなってからわかった、「隠匿物資」って言ってたんだった。
ばーさんは女6人男4人の10人兄弟の次女で随分苦労したらしい。
高等女学校にまでは行かせて貰えたけど、大学にまでは行かせて貰えなかったって言ってた気がする。
自分が中2の時に死んじゃったな、もっと色々聞きたかったよ。
そいで「鉄砲の弾にやられんと、蚊にやられて(つまりマラリア)」帰って来たらしい。
このじーさんは大正7年生まれやけどまだ生きてる、でも頭の中がお花畑になったから、施設に入ってて、親がちょくちょく見に行ってるわ。
水筒がなかったら自分は生まれてなかったんかと思うと感慨深いものがあるな…
【父方】陸軍・兵長
自動車部隊で整備などを担当していた。後方支援なので交戦経験はあまりなかった。ある日、兵舎で昼寝をしていたら警報が鳴り出したため一時的に壕に逃げ、警戒が解かれてから部屋に戻ると自分の寝ていたところに爆弾が落とされていて、天井から床までがポッカリと穴が開いていたそうな。
終戦間際にソ連の侵攻を知り、小型車両1台に約20人がしがみついて撤退。振り落とされないように手首を車に縛ったそうだ。「あの時に無理して逃げてなかったらシベリアに行きだったと思う」と。
帰国した時はガリガリにやつれ、祖母は別人だと思われたらしい。
【母方】陸軍・二等兵
満州鉄道の守備隊に配属。北方から攻めてくる騎馬民族と交戦していたらしい。彼らは現地に住んでいた中国人を拐っては殺す(頭の皮を剥いで、死体を晒しものにする)らしく、共通の敵と戦う祖父の隊は現地人から好意的に受け入れられてたらしい。
騎馬民族はチェコ製の銃で武装しており、発砲音を聞いてから出動するのだが、3~4人が1台の手漕ぎのトロッコに乗って追い回すため、いつも後手後手で逃げられていた。
「着任時は盛大に歓迎されたし、頻繁に差し入れを持ってきてくれたから、食べ物に困った記憶はない。のどかだったぞ。饅頭が美味くてなぁ。戦後の方が生活は大変だった」「中国人とは友好的だったし、身近な範囲では虐殺したなんて話は聞いたことがないぞ」と。
ただ、大陸特有の乾燥と兵舎に現れる巨大なムカデには頭を悩ませたらしい。
祖父は元来、酷いO脚だった。そのため、上官からは何度となく「貴様の『気をつけ』はなっとらん!!」と下駄で頬を殴られたらしい。
「そんなことを言われても、骨の形が曲がってるんだから無理なものは無理だ」と語っていた笑顔は今でも忘れない。
うちのばあちゃんとは逆の体験だな
うちのばあちゃんは橋を渡ってる最中に米軍機が来たらしい
見通しが良くて隠れるところが無いから橋の壁にくっついて固まってたらしいんだけど、すぐ目の前を通って明らかに隠れてるのがバレバレの状態なのに米軍機は何もしてこなかったらしい
その体験から国が言うほど米国も悪い人ばかりでは無いのかもしれない…と子供心に思ったんだそうだ
まあそのすぐ近くでも爆撃で子供が多く亡くなってるんだけどね
完全に俺のばあちゃんは運が良かったみたい
>祖母がインドネシアで憲兵やってて日本人を殺した話をしてくれた
>そして、いかに日本人は魂がなく子供を拷問で殺したかも教えてくれた
は? 祖母が憲兵? 当時の女性兵士は確かイギリス人とロシア人だけだろ
こいつ、ただのアジア系移民で脳内で白人気取りかよ くだらねえ
せいぜい英国やロシアでもパイロットか衛生兵ぐらいしかなれない ホント作り話下手だな
ハワイで石炭を積むのに駆り出され、石炭袋を運ぶのかと待っていたら、石炭船が来て
クレーンで掴んで石炭庫に放り込み、一時間ほどで終わってしまい、何もすることが無くて
驚いたと言っていた。
第二次大戦では徴兵されなかったが、アメリカには勝てない負けると言っていたとか。
父の兄はフィリッピンで戦死した、父は二十歳前で徴兵を逃れたが、名古屋の自動車
工場で働かされた。
高射砲が届かないもどかしさに悔しい思いをしたと。
何でかは分からん。
徴兵されて死んだ人の家はその人の墓か石碑みたいなもんが庭にあって写真も飾ってあったな。
じいさんは満州に居たらしいけど、会えなかったからわからない。
そっかー、命拾いして良かったな。
ホント、その時にばーさんが撃たれてたら、自分達はこの世にいなかったんだもんなぁ…
日本人にも色々いる様に、アメリカ人にも色々いるんだ、って当たり前の事に気付けた(しかも戦時中に)あんたのばーさんは大した人だったんだと思うよ。
だって「鬼畜米英」って刻み込まれてたはずなんだからさ、「ただの弾切れだな、馬鹿なアメリカ人め」ってな具合に受け取ってもおかしくないもんな。
個人を個人じゃなくしてしまう、戦争なんて真平ごめんだなぁ。
熊本からでもキノコ雲は見えたんだな。
結構長い時間、キノコ雲は残っていて家に帰ってもしばらく
眺めていたそうだ。
我々世代はみんな爺さんを知らない。
母方の祖父は高等商船学校で訓練を受けていた。殴られながら筋力トレーニングしたり、200tくらいの船でしか訓練できなかったといっていた。
終戦後、連合軍による処罰が始まって曽祖父も罰されそうだったが現地住民の嘆願によって釈放された。
戦争の話は一切しない。
「おまえたち(俺と兄貴)はトイレの紙を使い過ぎる。もっと大切に使え」と怒られたことがあったが、それ以外は温厚寡黙。
テレビで天皇陛下や靖国を報じてても、無反応。
母親から聞いた話では、満州にいたらしい。
自分の祖父祖母は全員生き残っていた、それが当たり前のように感じて育ってしまった
祖父母世代は出兵させられるには高齢で国内で兵団のために働いたそうだ、その息子たちは士官学校や予科練から激戦地や特攻にあと数ヶ月したら送られる寸前で終戦をむかえている
祖父母たちの末弟で子孫を残さずに激戦地で亡くなった方はいる
直接話を聞いたことはない。父は昭和20年に招集されたけど、訓練中に敗戦。艦載機の
空襲で軽症負ったり、訓練の様子、士官・下士官・古参兵の私的制裁、それに対するフケ飯等の
ささやかな報復、その他もろもろの軍隊生活について、自分が小学校の頃は話してくれていた。
より印象的なのは、訓練で山の上に機材背負って登り、目標までの距離を観測、後方の重砲陣地に
報告するときにモールス信号を使用したという話。聞いた当時は何も思わなかったが、無線が無い
のは分かるとしても、有線電話すら準備できなかったのかと、末期振りに今は驚かせられる
もう亡くなったけど、背中に大きい傷があった
茂みに隠れてた所を見つかって、手榴弾を投げられた挙げ句に銃弾の嵐で、片足が吹っ飛んだ戦友を引き摺って命からがら撤退したらしい。
背中の左肩付近が銃弾で抉れてんだぜ…
戦友は途中で力尽きて、じっさまは痛みに歯を食い縛りながら戦友を茂みに横たわせて軽く土を掛けて見付からないようにしたんだって。(アメリカ兵は死体で遊ぶと聞いてたから)
途中で仲間の日本兵を見付けて合流したら、上官?らしき人に敵前逃亡を責められて殴られる→出血もあり気絶→気付いたら病院かどっかのベッドの上だったらしい。
んで、治療中に終戦を迎えましたとさ。
でもじっさまはその上官もアメリカ兵も絶対に恨まなかったんだよ。
悪いのは全て戦争だ…とか言ってね。
そんなじっさまは3年前に96歳の大往生で亡くなったよ。
「俺も靖国に行きたか~」ってよく言ってた。
かの国には「欧州の韓国」の称号を与えよう
虐殺が好きだよな
田舎の農家だったけど、食べ物が無いからスズメを捕まえてこっそり焼き鳥にして食べていたらしい。
祖母は電話の交換手をやってて、空襲の中で防空壕に逃げる人に逆行して交換局に走ったって話を聞いた
家の祖父は当時年取ってたので兵にはいかず、その子供たちは三人ばかり
戦争に行ったが、ありがたいコトにシベリア抑留他に耐えて帰ってきた。
行った人は戦争中のつらかった話は一切してくれない、帰国してからも公職追放の煽りで仕事に就けないとかいろいろ大変だったらしい。
逆に年が若かったので、行かずに済んだ兄弟の苦労した話は、耳にタコができるくらい同じ話をエンドレス。
あとは空襲の話と、空襲機が来たらすぐ地面に這って耳ふさげという教訓くらい。
海上の移動中に自分達の船団が魚雷攻撃受けたっつってたな。
戦争から帰ってきてから昼寝してたらある日突然、ぽろっととれたらしい
シベリアに抑留されて、「良く働いた捕虜から日本に帰す。」というロシア人の言葉を信じ、腹ペコで必死に働いたが
謎の病気で高熱とふるえが治まらず、ぶるぶるする腕では茶碗の水もまともに口元にも運べないありさまで、「役立たずはいらん」と日本に帰されて戻ってきた。
「ダバイ、ダバイ」って何かと怒られてたらしい。
フィリピンへ行き、北の方を守っていたそうです。
「米軍は強かった」
「オラは運が良かったんだな~」と話し
仲間が戦死した場所を
靖国から取り寄せています。
近所の爺さんも抑留されてたらしいんだが
絶対そのことを話さない
思い出したくないそうで、周りも気を使って聞かない
かなり年だけど、温厚ないい人だよ
南京事件のことは、兵士に聞いた話だけど、中国の捏造だ。20万人しかいないとこで、30万人も殺せない筈。むしろ、日本軍が南京市民や怪我をした中国兵を助けたそうだ、と言っていた。国民党の逃げた南京市には人の影もなかったとも。
台湾では、多くの台湾人と仲良くなったらしく、まるで旅行から帰ってきたみたいに現地での出来事を楽しく父に話したらしい。というか実際本当に楽しかったのだろう。父にはお土産に革靴とバナナを持って帰ったらしい。日本に戻ってからの方が空襲で危ないめにあっている。
母方の祖父は兵役前で従軍しなかったが、その兄は特攻したと聞いた。
ただ父が教えてくれたのは、祖父が戦時中に(兵士として行っていたのかは不明)生きてる鯉を濡れ新聞紙で包んで、非常食として持っていったこと。
鯉の生命力SUGEEEE!ってことと、鯉が非常食として優秀だったことしか分からなかった……。
母方の曾祖父は警察官で戦争にはいかなかったそうだ
そしてもう一人の方の曾祖父が海軍で、長門って戦艦に搭乗してたそうだ
それで、残った海軍戦力で南方前線に行くことになって、いったん実家に戻って曾祖母に別れを告げたとか
で、横浜に行ったそうなんだが軍艦が無くてしばらくすると実家に戻ってきたらしい
そして実家で終戦を迎えた
生きててよかったと思うよ
でも俺が子供のころ他界してしまっので話したことはない
1度でいいから話したかったなぁ
彼は神風特攻隊のパイロットでアメリカの船をたくさん沈めたってね
>Kamikazeのパイロットがどうやって体験談を話すんですかねぇ・・・
死んだ爺さんは戦争の事は殆ど話さなかったが、俺が自衛隊に入隊してからは少しだけ話してくれた、爺さんは特攻隊の戦果確認機に搭乗していたらしい、特攻隊全てが体当りする任務じゃない。
ずっと生きている事に申し訳ないと思っていたそうだ、老いて死んでも死んだ戦友には会わせる顔がないと言ってた。
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